ギリシャ第二の都市・テッサロニキ。
  「Θεσσαλονικη(thessaloniki)」と言う綴りに従い正確に発音するなら「セッサロニキ」と表現した方が妥当なこの街は、ギリシャ北部・ハルキディキ半島の根元の部分に位置し、
  人口約80万人を擁する都市である
  アレクサンダー大王の異母妹テッサロニケの名を冠するこの街は、まさにその名の通り古来よりローマと中東を結ぶ交通の要所として栄え続けて来た
  また、紀元50年に使徒パウロがこの地にヨーロッパ初となる教会を作り住民に布教した事から、
  東ローマ帝国時代にはその首都コンスタンティノープルに次ぐ第二の都市として宗教的にも重要視されていた街でもある
  テッサロニキはアトス山で知られるハルキディキ半島と地続きになっており、半島との間にテルマイコス湾を抱くその地形は南に向けて開けている

  そのテルマイコス湾に面した一本の通りに、一人の男の姿があった
  男の後背に伸びる一層長い髪が周囲の目を引き兼ねないが、徒歩のスピードを周囲と巧妙に調和させる事で、実に違和感なく街の住人を装う事に成功していた
  無論、これらの技術は一朝一夕に身に付く物ではない
  長年日陰に甘んじた生活が、彼の身にその能力を与えたのであった
  怪しまれぬ様、一般人の気配を醸し出しつつ通りを歩くその男の視線の先には、プラスティック製の大きなゴミ箱があった
  街灯の下に置かれているそれは、ギリシャ国内なら何処でも見られる、ごくごくありふれた規格の物だ
  ビリジアンの巨大な箱型のそれには大概蓋は無く、口は天に向かって広々と開いているため、ゴミが堆積して来ると多少の悪臭がそこかしこに漂うのが難点だろう
  ちなみに、収集時には箱ごと交換してしまうので、悪臭は収集後には綺麗さっぱり消えてしまう
  ――閑話休題。
  男が先程からじっと凝視していたのは、ゴミ箱そのものではなく、その中身の方だ
  無論、目ぼしい物を物色して居る訳ではなく、其処に危険物が置かれていないか監視しているのだ
  通り過ぎ様に異物が無い事を確認し、男は次の街灯の下のゴミ箱に向けてその長い足を交叉させる

  ……全く、こんなくだらん任務も珍しい。本当に俺がやる必要があるとも思えんが…。

  男はあくまでも無表情を装いながら、内心大いに毒づいた
  ――男の名はカノン。この国に拠点を置く『聖域』に属する黄金聖闘士の一人である






Μακρια μου , κοντα σου
(Far from me,next to you)






  ――話は一週間ほど遡る。
  聖域でその第3番目となる宮殿・双児宮を守護する任務を請け負っている黄金聖闘士・カノンは、教皇宮に呼び出された
  教皇宮を本来司るのは教皇たるシオンであるのだが、その外務・外遊時にはカノンの兄サガが専ら代理を務めるのが慣例となっており、今日もカノンを呼び出したのはこの兄の方であった
  シオンの召集時とは明らかに異なる荒い足音に、サガは玉座で眉間に皺を寄せた


  「…随分と敬意の篭った態度だな。」

  「俺を呼び出したのが教皇猊下本人であれば、自ずと態度も変わろうと言う物。…兄に対して今更遜る必要もあるまい。」


  サガの整った唇からフゥ…と小さな溜め息が零れたが、それは諦観の表れでもあろうか
  教皇代理を前にして跪礼する訳でもなく、カノンはその場に立ったまま兄をチラリと一瞥した


  「…で、何の用だ。」

  「先般よりギリシャ国内においてデモやテロが頻発しているのはお前も知っているな。」

  「デモは古代からこの国のお家芸だろうが。今更騒ぎ立てる必要もないだろう。」


  弟の取り付く島も無い返答に、サガは眉間に更に深い皺を刻んだ
  ――カノンのこの台詞には、確かに一理ある
  紀元前に、それこそ世界で初めて民主政治を確立したのがギリシャの各ポリスであるのだが、それはこの国の人間の価値観として『手続き的公正』が最重要視されていた点に起因する
  解り易く説明すれば、『自分がどれだけ政治決定に関る事が出来たか』に一番重きを置いていた、と言う事だ
  選挙や陶片追放などの斬新な制度は、まさにこの『手続き的公正』を具現化した物と言って良いだろう
  …但し、ギリシャのポリスの場合、この『手続き的公正』を重要視するあまり、『実際にその政治によって何が行われ、自分たちにどんな結果がもたらされているのか?』と言う『結果の公正』を人々が見落とすと言う恐ろしい陥穽も存在したのであるのだが、現在のギリシャ人にもやはりこの傾向が連綿と受け継がれているふしも見受けられる
  つまり、デモによって自分達が国に何かを訴えるのは彼らに取って最も尊ぶべき権利であり、その結果国が窮地に陥ったり、観光客の足が遠のいて経済的に多少打撃を受けても致し方無いのである
  カノンが冷笑してみせたのは、この国のそのあたりの事情を痛烈に批判しての事であった
  サガは渋い表情のまま、法衣に隠した逞しい腕を前に組んだ


  「そうは言うが、ここ暫くの状況は随分と悪化したと言って良い。
   お前の挙げたデモ一つ取っても、例年は3月の決められた時期に決められた場所で行われていたのだからな。言わば息抜きのための恒例行事だった訳だ。
   だが、先年の世界経済危機以降、この国の経済状況は加速度的に悪化している。
   自力でどうにかすると言い張っていた政府も、遂にEU側の援助条件を飲み込まざるを得ない所まで来てしまった。
   今回はそれに対するデモなのだから、これ以上放置する訳には行かんのだ。ましてや危険はデモだけではない。テロこそが最も警戒すべき事態だ。」

  「…判り切った政治の講義はもう良い。それで、俺に何をしろと?シンタグマ広場で火炎瓶の片付けでもすれば良いのか?」


  多少捨て鉢気味に言い放った弟に、サガは少し口元を緩めて笑ってみせた


  「惜しいな。お前に行ってもらうのはテッサロニキだ。任務はテロ警戒、期間はきっかり一週間だ。
   人口の多いアテネとテッサロニキは黄金聖闘士が交替で警備に当たり、その他の都市は白銀聖闘士達が当たっている。
   …先に言って置くが、これは政府からの要請を女神が請け給うた正式な任務だぞ。お前に拒否権は無い。」


  弟の反論を封じ、サガは玉座から身を進めてカノンの肩にポン、と触れた


  「何事も起こらないのが一番の僥倖だ。それを弁えておく様に。………たまには聖域<ここ>の外で息を抜いて来い。」


  兄の最後の一言に、カノンは無言でサガを睨め付けるとバサリとマントを翻した





     ××××××××××××××





  数十m先のゴミ箱を視界の端に入れ、カノンは一旦往来で立ち止まった
  カノンがくるりとその身を翻すと、目の前にはテルマイコス湾が拡がる
  エーゲ海に繋がるテルマイコス湾の海水は深い藍を湛え、目前に立つカノンの瞳を映したかのようでもある
  目を細めて凪いだ湾の表面を見遣り、カノンはフッと溜め息を落とした

  サガの奴は気を利かせたつもりで『外で息を抜いて来い』などと殊勝な事をほざいたが、現実にそれを実行したら間違いなく俺を袋叩きにするだろうからな
  …尤も、息抜き出来るものならとっくにやっている所だが
  見ろ、このニキス通りのカフェニオンの盛況ぶりを。第二の都市だけあって観光客だらけだ
  差し詰め、デスマスクあたりが警戒担当だったら任務なぞ二の次だろうに

  そこまで考えて、カノンは無意識にフッと笑いを洩らした

  …いかんな。幾ら任務の日程を半分以上消化して何も起きる気配がないからとは言え、少し油断が過ぎると言う物だ
  ともあれ、任期が終了したら直ぐ復命せねばなるまい。遊ぶ時間は俺には許されはしないだろうよ

  再度一般人の気配を纏い、カノンが海岸線から身を翻したその刹那、その視界に妙な気配が掠めた
  カノンから数えて、二つ先のゴミ箱の付近だ
  白いシャツに黒のボトム、濃紺のフィッシャーマン帽と言うこの国になら何処でも見られそうな身なりの男が、通りの影から一直線にゴミ箱の方向へ歩いて来る
  歩く速度こそ周囲のスピードに溶け込んでいたが、あまりにも直線的なその近付き方はカノンの目には明らかに異質に映った
  男は片手に古びた深緑色のバッグを提げている
  どうやら小さめのスポーツバッグのようなそれは、ボーリングバッグと呼ばれている物であろうか
  バッグの色が深緑なのは、ゴミ箱と色を合わせて目立たなくするためであろうとカノンには考えられた
  ――アテネと異なりギリシャ北部・国境近くに位置するテッサロニキでは、鉄道伝いに近隣諸国の人間も絶えず行き交っている
  マケドニアやブルガリアの人間も頻繁に出入りしているが、ルーマニアに起源を持つ所謂『ジプシー』の数もアテネに比べると格段に多い
  彼らはスリや盗み、物乞いだけでなく、ゴミ箱の中身を物色する事もある
  目に付きやすい色のバッグはそれだけで彼らから狙われ易いのだ
  何らかの意図を持ってゴミ箱に危険物を設置したい手合いからすれば、ゴミ箱に放り込んだ瞬間にジプシーに拾い上げられてしまうような真似は極力避けたい道理であろう
  カノンは男に意識を注いだまま、通りを歩き始めた
  …無論、一直線に男に近付くような間抜けな真似はしない
  さりげなく前方に顔を向けた状態で歩きつつカノンが脇目でチラリと一瞥してみた所、男はカノンが睨んだ通りゴミ箱の前で立ち止まり、少し周囲を見回した

  …クロだ

  カノンは男の彷徨う視線と合わぬ様に己の視線を少し伏し目がちに落とし、ゴミ箱から僅かに遠ざかった
  キョロキョロと数度、目を泳がせた男が徐にボーリングバッグを持ち上げ、ゴミ箱の端の方にそっと置く
  …と、此処で焦ってはいけない
  カノンの任務は『テロの防止』が第一であり、『犯人の確保』はそれに次ぐ
  無論、双方ともに成功すれば文句の付け様も無いのだが、この場合はまずバッグの中身の確認が優先する以上、犯人を一度やり過ごす必要があった
  件(くだん)の男はバッグを置き終えると再度周囲を見遣り、素早くその場から元の道へ引き返し始めた

  どうやら、自爆する気は無いらしい。…まあ、俺が犯人だったとしてもそうするだろうがな

  カノンは口の端に彼一流の皮肉な笑みを浮かべ、男がニキス通りを脇に入って消えた後も暫く様子を窺う事にした
  …犯人が物陰からゴミ箱の様子を監視している可能性も考えられるからだ
  とは言え、カノンも紛う方無き黄金聖闘士の一員である。一般人と同じ手法で様子を窺う事は無い
  立ったまま…いや歩きながら、相手の小宇宙を直に追跡するのが聖闘士の遣り方だ
  犯人の小宇宙が通りから真っ直ぐに遠ざかって行くのを感知し、そこで初めてカノンは歩みをゴミ箱の方向へと改めた
  歩きながら手をボトムのポケットに無造作に突っ込み、中で手に触れた紙切れをぐちゃぐちゃに潰す
  こうして、あたかもゴミを捨てるフリを装えば周囲の注意を無駄に引く心配も無い
  後は紙切れとバッグを瞬時に交換し、人気の無い所でバッグの中身を検(あらた)めるだけでカノンの任務はほぼ完了する
  ……と、本人は考えていた。寧ろ確信していたと言っても良い
  そのカノンの視界に、再度彼の注意を喚起するものが飛び込んで来た
  再度、とは言え、今度は些か異質なターゲットだ

  ……何だ、あの女は……?

  ゴミ箱に近寄ろうと歩き出したカノンから先に、一人の女性が立っていた
  女性は丁度ゴミ箱の前まで来て止まり、手にした白い小箱をゴミ箱の高さまで一旦持ち上げた後、やや躊躇って両手で箱を大切そうに胸に抱え込んだ
  ある程度の距離を挟んだカノンには、女性がどうやら溜め息を吐いている様にも見える

  …何か事情は能く判らないが、取り敢えず今はこれ以上ゴミ箱に近付くのは止めておいた方が良いだろうな
  ヘタに近付いても、あの様子では俺がバッグを拾い上げるのを間近に目撃されてしまうのが関の山だ

  カノンは瞬時に判断を下し、コースを修正すると一旦ゴミ箱から遠ざかった
  本人には気付かれぬ様にやや遠巻き女性を監視しつつ、先程の犯人の小宇宙がこちらに向かって来ない事も確認するのも怠らない
  どうやら、女性と犯人とは今の所無関係な様に思われたが、何があるか判らない以上カノンも迂闊に気を許せはしない
  カノンが遠巻きに観察する中、当の女性の方はそんな事は露知らずで例の小箱を手にしたまま、じっとそれを見詰め続けていた
  他の人間が気付いたとして、その誰が見てもとても大事な物を持つ仕草であるのは間違い無い

  …一体何が入っているのだ、あの箱は?

  カノンは女性の持つその物体を誰何し、少し首を傾げた

  持ち手の付いたそれは、一見する限りでは菓子店のパッケージの様にも思えるのだが。…いや、もしかすると衆目を欺くための小細工かもしれない………だが。
  だとすれば、あそこまでまじまじと凝視するのは些か可笑しくないだろうか
  あれでは周りに気付いてくれと言わんばかりだ

  これ以上考えても正解は一向に出そうにもないので、カノンは女性の手元から一旦注意を外し他のポイントを観察する事にした
  カノンが改めて女性を見た所、どうやら彼女の年齢は自分より多少上のようだ
  恐らくギリシャ人なのであろうが、同じ年頃のギリシャ人女性と比べると妙に服装が地味に思える
  濃紺のロングワンピースには白い小花が水玉模様状に散らされていて清楚と言えば清楚な印象ではあるが、やはり控えめなイメージとしか表現し難い
  もしかすると、服の地味な印象から実際より年嵩に映っているかもしれない
  ギリシャ初夏のこの季節に相応しい涼しげなサンダル以外には、アクセサリーや帽子、サングラスと言った特筆すべき装飾品も無い
  オフィスで働く女性でも、もう少し小洒落た出で立ちをしているのが普通である

  …地味に装う、と言う意味ではテロリストの一味の可能性もあるが……

  今回の場合、明らかに地味すぎて逆に目立つ。それがカノンの答えだった
  クラッチバッグのような小さな鞄を斜め掛けにしているそのスタイルも、少なくともオフィスワーカーの服装ではないようだ

  或いは、近隣の観光客かもしれないな。だとしたらこの軽装は説明が付く。…だが、やはり服が地味だ
  この国にバカンスに来る人間は、基本的にもっと派手に装うものだろう

  と、たっぷりカノンが考え込んでいる間、女性は相変わらず手の小箱を上げたり下げたりしている
  暫く観察していると、カノンにもどうやら彼女がその小箱をゴミ箱に捨てるか否かで悩んでいるのであろう、と言う事が判る
  故に、やはりその中身が気に掛かって仕方なくなって来るのだが、こればかりは実際に検めて見るより他には無かった

  …本当に、まだるっこしい任務だ。どう考えても俺には不向きな仕事だぞ

  若干苛苛した面持ちでカノンが両腕を組もうとした、まさにその瞬間の事だった
  例の女性が小箱を持ち上げ、もう片方の手をゴミ箱の内側へ伸ばした
  カノンが息を呑む

  あの女、一体何をするつもりだ?

  カノンの懐疑を他所に、女性はゴミ箱の内側に伸ばした手であたりに山積みされたゴミを探り始めたではないか
  ゴミ箱の高さは2m近くあり、手前側の面だけゴミを捨てやすい様に高さが50cm程度低く切り取られた形をしている
  故に、比較的小柄な女性からすると、ゴミ箱の中身自体はあまり見えない事も多い
  それでも、さし当たって『ゴミを捨てる』と言う行為をなすにあたっては、ゴミ箱の中身をわざわざ確認して物を放り込む必要まではないだろう
  だとすれば、彼女は今、一体何を為そうとしているのだろうか
  警戒を最大レベルに引き上げ、カノンが身構える―――無論、何が起こってもすぐに対処するためだ
  カノンが見る限り、女性は自分の頭の高さまで山積みになったゴミを一つづつ手で払い、平らな場所を作ろうとしているらしかった

  …もしや、あの箱を捨てる場所を作るために、か?

  あれだけ大切そうに抱えていたのだから、無論中身は大切な物であって然るべきであろう
  どうせ捨てるのなら、そのままの状態でそっと置きたいと女性は考えているのかもしれない――尤も、それが危険物であるから、と言う可能性もまだ十二分に残されてはいる
  自分自身ではゴミの一番上の状況まではほぼ見えない女性が、文字通り手探りでゴミの山を掻き分け、ようやく希望に副った平らな場所を作り上げようとした、その瞬間。
  女性の手が例の深緑のバッグの端に触れた


  「危ない!!手を離せ!!」


  大声を発すると同時に、カノンは影から飛び出した
  女性の口から零れた「…え?」と言う台詞の語尾が大きな爆発音と一瞬重なり、一気に掻き消される


  ワァァァン……と耳道を揺るがす妙な音が何度か女性の両耳を往復し、やがて徐々に小さくなって消えた
  妙な音が消え去ると同時に、今度はやたらと騒々しい音が耳に飛び込んで来た
  どうやら、女性の悲鳴や男性の怒号が飛び交っているようだ


  「………何…?」


  周囲の意味不明なこの状況を確認しようと女性が目を開けた途端、視界が暗く染まった
  視界が暗くなったのも当たり前で、彼女の目の前に大きな壁が立ちふさがっていたからだ
  妙に全身のあちこちが重く圧迫されている事から考えると、壁はどうやら自分を押し倒した形になっている様子であるらしい
  兎に角立ち上がらなくては……と目の前の壁を押し上げるために触れた彼女の手に、生暖かくやけにぬるりとした感触が走った


  「……ひ……っ、………血……!?」


  驚いて飛び起きた女性の脇に、壁がドサリとスライドして落ちる
  …壁だとばかり思っていたそれは、一人の男性だった
  うつぶせに倒れたその背中にはガラス片やプラスティック片のような物が幾つも刺さっており、シャツのあちこちが裂けて赤く染まっている
  彼女の手に触れた血の出所はこの男だったのだ
  半身を起こした状態で周囲を見渡すと、自分達の他にも何人かの男女が地面に突っ伏して倒れている
  さっきまですぐ側で自分が立っていた筈のゴミ箱は大破して大小の破片があちこちに散らばっているのに加え、後ろにあった街灯も中心からぽっきりと折れて、上半分はガラス部分を中心に粉々の有様だ
  この状況から推測するに、恐らく自分は何らかの爆発に巻き込まれたのかもしれない
  自分の脹脛(ふくらはぎ)の部分に乗ったままの男の脚をそっとずらし、女性はその場に膝を着くと男の耳元に呼び掛けた


  「あの……大丈夫ですか?聞こえますか?」


  音量を上げ何度か呼び掛けを繰り返したが、返事は無い
  女性が必死に呼び掛けている間にも男の背中の傷口は血を流し、シャツはみるみる真紅に染め上がる
  痛々しい男の背から目に見える破片だけでも取り除きたかったが、そうする事で事態を悪化させる可能性もあるだけに、女性にはどうして良いか解らなかった
  …ただ、この場にうつぶせのままの身体は動かさない方が良い事だけは解る。下手にひっくり返すと背中の破片が肉体を更に抉るためだ
  呼吸を確認するため、逆側に横向けた形になっている男の顔を覗き込み、女性ははっとした
  顔のあちこちを覆う長い髪の合間から覗く端整な目鼻立ちに憶えがあったからである

  …この男(ひと)、さっき私に「危ない!」と言った男だわ……!何が危ないのか咄嗟に判らなかったけど、きっとこの事だったのね。
  でも、さっきは随分離れた所にいた筈のこの男が、何故今私の側に倒れているの…?

  暫しの懐疑から一転、再び現実に舞い戻った女性は、慌てて男の口元に耳を近付けた
  スー…スー…と定期的に呼吸音が聞こえる


  「良かった………生きてる。」


  女性が自分の胸に手を当てほっと安堵の呼気を洩らすと、突如目の前の男の巨躯がピクリと動いた
  男の整った唇の合間からう……と苦悶とも取れる呻き声が漏れるのと同時に、背中の傷口から鮮血がポトポトと滴った


  「動いちゃ駄目。酷い怪我をしているから。」


  女性が必死に制するのを遮って、男――無論カノンの事であるのだが――は片腕を地面に着きゆっくりと身体を起こした
  こうして改めて見れば背中だけでなく、腹部や腕のあちこちにも破片が突き刺さっている
  通常であれば意識を失うほどの激痛に襲われて然るべきだ
  …であるにも拘らず、目の前の男は今其処で軽く転倒したとでも言わんばかりに己の服や髪に付いた埃や煤をパンパンと払い、すっくとその場に立ち上がった


  「怪我は無いか?……いや、愚問だったな。」


  男の低く通る声は兎も角、その言葉の内容に女性は一瞬気を失いそうになり、はっとして口を開いた


  「怪我は無いか…って、それはこっちの台詞でしょう!?酷い怪我で今の今までずっと意識不明で、突然飛び起きて一体何を言うのかと思ったら………!」


  カノンにチラリと一瞥されて、女性は口を噤んだ

  …どうやら、怒っているようだ

  それ程に自分を心配していたのかと思い、カノンは遅まきながら慙愧の念に駆られた
  聖闘士と常人は違う。普段の聖域の生活の中で自然とその事を失念したにしても、今度ばかりは明らかに自分に非がある


  「心配を掛けたようだ。…済まなかった。」


  自分が倒れていた場所に座り込んだままの女性に手を差し伸べ、カノンはぽつり、と呟いた
  目の前の男があまりにも素直に謝ったので面食らったのだろうか、女性はそれきり抗議の口を閉ざした
  カノンに手を引かれる形で、女性もその場に立ち上がる


  「…ありがとう。貴方……ええと……。」

  「カノン、だ。」

  「カノンさん、ね。私は。…それよりカノンさん、貴方本当にその傷は何ともないの?随分出血しているように見えるのだけど…。」


  は濃紺のワンピースに付着した白っぽい埃を簡単に手で払い、カノンを見上げた
  自分の上に倒れていた時から感じてはいたが、カノンはこの国の男にしても随分と大きい


  「…ああ、大した事は無い。出血はあくまでも表面的な物だ。」

  「そう……なの?本当にそうだと良いのだけれど…。」


  はカノンの血染めのシャツを見詰め、眉を顰めた
  一方のカノンは打って変わり、厳しい目つきで周囲を窺っている

  …例の犯人の小宇宙は感じないな。やはりもう霧消したと見て間違いない、か

  周囲に倒れている数人の負傷者を一瞥し、カノンは元凶の在った方向を見た
  無残に壊れたゴミ箱と、折れた街灯。そして散らばるガラスとゴミ
  …と、その中に見覚えのある白い小箱を捉え、カノンははっと息を呑んだ

  …あれは……ケーキ…か?

  あれほどの爆発の衝撃を受けたにも拘らず、例の小箱は外側の一面が焦げて無くなっているだけの奇跡的な損害に留まっていた
  横倒しになった箱から、中に入っている茶色のケーキの様な物が覗いている
  …と言う事は、この小箱は爆発物では無かったと言う事が判る。引いては、やはりは唯の不運な被害者と言う事だ
  だとしても、たかだかケーキを捨てるのに何故あれほど躊躇うのだろうか
  カノンは新たな疑問を心の隅に留め、をもう一度向き直った
  どうやら、はカノンが自分の捨てたケーキに気を留めているのには勘付いて居ない様だった
  一方のは、周囲の負傷者に一人づつ声を掛けて回っていた
  数分後、再度カノンの隣に戻ってきたが安堵の溜め息を落とす


  「良かった。どうやら誰も命を落とさずに済んだみたい。怪我をしている人はいるけど、重態と言う程ではないみたい。
   …良かった……本当に良かった…。これ以上は………。」


  が突然泣き始めたので、カノンは少々戸惑った
  自分に対して猛然と怒り出すほど気丈なが、何故今になって涙を零すのだろう
  の最後の一言が非常に気に掛かって仕方が無かったが、カノンは無言で彼女の背後からその肩に手を回した







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